3.11のこと。
10年目の3.11は出番だった。
あの日のことを想う。
タクシーを運転するようになって2年経つかどうかの頃だった。
徹夜仕事明けの日で、足立区にあった会社の寮で一人寝ていた。
相部屋の同僚2人は出番でいなかった。
突き上げる揺れで目は覚めたが、布団にくるまったまま。
もう揺れが止むだろう、止むだろうと思っているのに、揺れが収まらない。
マンションのドアを開けておいたほうがいいだろうかと考えながら、半身を起こしたが、動く気にもなれず。
幸い、家具らしきものは何もない部屋で、部屋の隅に積み上げていた本がバサーッと布団の上に崩れ落ちてきて、起き上がったが。
何冊かの本を手に持ったまま、頭はまだ寝ていた。
テレビも持っていなかったので、どこで地震が起きたのかも分からず。
ラジオをつけて東北が震源だったことを知った。
湘南にいる家族と電話もつながらなかったが、無事であるとメールは入れた。
東北出身の友人、知人の顔を思い浮かべたが、ほとんどが東京在住で、すぐに安否を気にする付き合いでもなかったから、その日はそのまま、また寝てしまった。
あの日の夜の記憶がない。
災害は、ライター時代、長く関わってきたテーマのひとつだった。
阪神淡路の震災には、3日目から現場に入り、3年つき合うことになったし、雲仙普賢岳の噴火災害やその後の復興事業の取材にも何年も関わった。
本の編集者、ジャーナリストとして、突発的な災害に遭ったときになにをしないといけないかを重々承知していたはずだが、ライター稼業から足を洗って、まったく別の仕事に就いて、担当編集者ともほとんど連絡を絶ってしまった時期だった。被災地に取材に出かけられるような体力も経済力もないことは自分でも承知していた。被災地の取材というのは、食糧も足も自分で調達しないといけない。
あの夜だって、また災害報道に復帰するかどうかを考えはしたはずだ。
神戸の取材では、地元の自転車屋さんで中古の自転車を買って、最初の2か月は公園野宿だった。被災地に入るとなると、バイクがなけりゃ、身動きも取れないだろう。断続的に徹夜が入る週刊誌や月刊誌の原稿の〆切りに耐えられるかどうかを考えれば、まず無理だった。クモ膜を患い、リハビリで回復はしたものの、どうやらタクシードライバーとして社会復帰したばかりという健康状態だった。
普段、タクシーに乗っているとき、昼間はラジオをつけないのだが、今日は、ラジオを聞いた。
神保町で弁当を買って、靖国神社のそばに車を停めて、弁当を食べながら、被災地の方々の声や便りを聴く。聴いているだけで泣いてしまった。
東北大震災について考えようとするとき、被災地の人たちと現実的になにも連帯できなかったという申し訳なさでぼくの胸はいっぱいになってしまう。
聴きたくもないNHKで追悼式の実況を聴く。
エーッ!? 東北大震災の追悼式なのに、仙台でも、盛岡でも、福島でもなく、東京でやっているという違和感。
1万8500人があの日、亡くなって、その後に亡くなった方も含めれば2万2200人の方が亡くなった、その追悼式だ。
祝い事じゃなくて命日なんだよ。ここまで復興が進んできていますよという報告会じゃねえんだからよ。
だいたい、フクイチのどこが復興しているんだよ、アンダーコントロールなんてまったくウソじゃねえかと心のなかで毒づいている。
あの日の翌朝、6時前だったか。会社からの電話でたたき起こされた。
電車が止まってしまったため、出勤できないドライバーが多いので、急いで出社してくれ。お客さんが大勢、待っているとのこと。
同部屋の同僚もまだ帰ってきてなかった。
自転車で、30分ほどの北千住の営業所に行く。
営業所の前に200人近い行列が出来ていた。前夜、自宅に帰れなかった人たちが、電車も動いてないから、駅前にあるタクシー会社に行列して待っていたのである。
最初のお客さんは越谷まで。普段なら1時間ちょっとで往復できるところだが、道路が大渋滞。3時間半かけて北千住まで戻った。
「回送」にして戻ってきたのだが、あと少しで営業所というところで、親子のお客さんに懇願されてお乗せする。茨城の龍ケ崎まで行ってほしいとのこと。電車がストップして行きようがないのだそうだ。家族が地震でケガをして、病院に運ばれたのだが、その病院までとのこと。
営業所のすぐそばだったので、ひとまず営業所まで帰り、お客さんにもトイレを済ませてもらい、営業所にあった水のボトルを何本か積んで、11時に出発。大きい幹線道路は送迎車で満杯状態になっており、裏道を選んで走ったが、6時間かかり、東京まで戻って来れたのは夜9時を過ぎていた。
<この項、続く>
「コメント、質問の類はこちらまで」
「お父さん、なんですの、その貼り紙?」
――若いときの淡島千景風のおかみさん、玄関先から箒を持って現れる。
「いや、訪ねてくださった方が迷ったらいかんと思うてね。ここへ貼っておこうと」
「しつもんのルイ? ルイって、なんですねん」
「ルイじゃなくてタグイと読んでください。たぐいとね。たぐい」
「ルイでもタグイでもええんですけど。なんでさえ、うちのブログは高飛車や、
敷居が高そうやと言われておるんでしょ。
倉庫みたいな重いもんばっかり積み上げて、あのオッサン、なに考えとんやって。
和さんなんか、夕べもはっきりそう言ってました」
「いや、彼がいったのは、正論には正論の重みがありますねえと…」
「都合のええ解釈ばっかりしてから。
せっかく来てくれはったお客さんがいんでしまうようなかた苦しいこと、
わざわざ札まで出さんでもよろしいんと違います」
「そうかねえ、ウ~ム。まあ、そういう見解もあるかもしれませんが…」
「ごめんください」
「はーい。はいはい」
――姉さんかぶりの手ぬぐいを取って、玄関の木戸へカランコロンと小走りに出るよしえ。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お入りになって。お父さん、お客さま」
―― 一杯飲み屋のような紺地に白抜きで「千客万来」と大書きしたのれんを
不思議そうにくぐる来客。
「千客万来は縁起物やゆうて、吊したままにすることにしたんですわ。どうぞ、どうぞ。
遠慮なんかせずに。どちらからお越しで。まあ、そりゃまた、遠方からご苦労はんなことで」
「やあ、どうもどうも…。お母さん、お母さん、お茶」
「いやあ、初めまして…」
――来客、風呂敷包みを解きながら、
「粗末なものですが…」
と、口中でつぶやきつつ、コメントを玄関の上がり口に置く。
「まあ、気を遣っていただいて。お母さん、結構なものをいただきましたよ」
…昭和34年ころまでの玄関先の礼儀でありました。
いい時代でしたなあ。いま思い出しますと…。
――遠くを見つめているとらオジ。目をしばたたかせている。
――とらオジの後ろでよしえさん、めくりをめくる。
◆それはさておき、この玄関先を普請中のあいだ、コメントやご質問、そこはかとない書き込みなどの場所にさせていただきます。
――二人、並んでお辞儀。
◆質問をいただきましたら(お題をいただきましたら)、さっそくナマモノの調理に
とりかからせていただきます。
おもしろいお題には、「ハイハイ、山田君、座布団差し上げて」。
◆それぞれのレポートについてのコメントはその項目にお書き込みください。
苦情、クレームにつきましては、できますればご遠慮させていただけましたら。
よしえさん、きっぱりと、
「隅から隅まで読み終わるのは不可能な構造になっておりますし、
やばいモノの上にはまたアップロードで隠してしまう予定ですわ。
ささいなことには目をつぶりましょう。ネッ。」
――ウィンクするよしえさん。
「お母さん、さあさあ、いただいたコメントを見せていただこうじゃないか」
ひな祭りの午後、今日も平和なとらオジ宅であった。
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